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国勢が衰退した渤海

国勢が衰退した渤海であるが、大明忠が没し、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。大仁秀が即位した時代、渤海が統治する各部族が独立する傾向が高まり、それが渤海政権の弱体化を招来した。これに対し大仁秀は北方諸部の攻略と郡県の設置を行った。特に渤海に対し独立した勢力を保有していた黒水部を攻略することに成功し、黒水府を設置した。これにより黒水部が独自に唐に入朝することはなくなり、その状態は渤海の滅亡直前まで続いた。他にも鉄利府、定理府、安辺府、懐遠府を設置し、遼東半島などをのぞいて旧高句麗の領土をほぼ回復し、「海東の盛国」と称されるようになった。

その子の大彝震の時代になると、軍事拡張政策から文治政治への転換が見られた。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。

10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。この結果渤海を含む周辺諸国に対する支配体制も弱体化していった。その結果中国の史書から渤海の記録が見出されなくなる。大玄錫に続いて即位した大瑋瑎、それに続く大諲譔の時代になると権力抗争で渤海の政治は不安定化するようになった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は926年に滅亡した。契丹は故地を統治すべく東丹国を設置して支配したが、貴族をはじめとする領民が大挙して高麗に亡命して930年に自然消滅した。しかし、渤海における唐の制度は、契丹が中原化していくに際し参考にされ、遼の国制の特色とされる両面官制度に影響を与えたといわれる。

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また東丹国が930年ごろに消滅して以降、数度にわたって遺民が渤海再興を試みるが、キタイ(契丹、遼)の支配強化によってすべて失敗に終わり、そのつど遺民は高麗へ亡命していった。しかし、黒水靺鞨から発展した女真が建てた金王朝(1115年~1234年)において、旧領に残った渤海遺民は厚遇され、官職につく者や、王家に嫁ぐ者もいた。金を滅ぼした元の代では、華北の渤海人は「漢人」として支配を受ける。その後、女真は満州として再び台頭するが、渤海の名称は東アジア史から姿を消してしまう。

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2009年04月30日 07:14に投稿されたエントリーのページです。

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