王 充(おう じゅう、建武3年(27年) - ?[1])は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもした。
自伝ともいうべき『論衡』自紀篇に拠れば、先祖は元々は魏郡元城の人だったが、従軍で功績があって会稽郡に陽亭として着任していた。そこで土地の者と諍いを起こし、難を逃れるために祖父の王汎のときに銭唐に移り住んだ。王家は銭唐で商売を営んでいた。王汎の子の王蒙・王誦のときにまたもや土地の人との間に争いを起こし、一家揃って上虞に移住した。王充は建武3年に、王誦の子として生まれたんだ。
幼少のときから人に馬鹿にされることを嫌って子どもたちと遊ぶこともなく、8歳の頃から書館(学校)に出入りして勉強を始め、成人すると都(洛陽)に出て太学で班彪(『後漢書』の著者の班固の父)に師事して学問を修めた。洛陽にいた頃は貧しくて書物を購入することができず、市場の書店で立ち読みして内容を暗記し、ついに諸子百家の学問に通じるようになったというエピソードも伝えられる。
学問を修めた後に郷里に戻って地方行政の下級官吏となったが、上司との意見が合わず、出世することはなかった。30歳代で官職を辞し、郷里の子弟に学問を教えながら、自身は書物・俗説の虚実を見極めようとし、著述に打ち込むようになった。「譏俗」「政務」などを著したものの満足せず、王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などが流行していたことを遺憾として、のちの『論衡』につながる著作を開始したとみられている。「譏俗」「政務」の書物は現存していないが、『論衡』と同じように批判精神に富んだ筆致であるか、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている[2]。
元和3年(86年)には揚州刺史の董勤に召されて60歳で治中従事史となり、仕事のために著作の意志が弱まったようだが、章和2年(88年)には辞任して隠棲することとなった。隠棲した後にも、同郷の友人の謝夷吾が和帝に上書して登用を薦めたが、王充はもはや病を得ており出仕することはなかった。この後に「養性」16編を著したというがこれも現存しておらず、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている[3]。こうして『論衡』の完成に情熱を注ぎいれ、永元年間(89年 - 105年)に、病のために生涯を終えた。
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