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鹿ケ谷事件

安元2年(1176年)7月に建春門院が死去したことで、今まで隠されていた後白河と平氏の対立が表面化する。12月5日、頼盛は権中納言に昇進した。同日、藤原成範も権中納言となり、藤原定能・藤原光能が他の有力候補者を押しのけて蔵人頭に抜擢されている。彼らはいずれも院近臣であり、その昇進には後白河の意向が大きく反映していた。後白河と平氏が対立している状況で頼盛の昇進が実現したのは、平氏一門であるよりも後白河近臣としての側面が大きかったことを物語っている。

翌安元3年(1177年)、重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、後白河が福原を訪問したことで対立は緩和されたかに見えたが、4月に延暦寺が加賀守・藤原師高の流罪を要求して強訴を起こすと亀裂は逆に深まっていく。後白河は延暦寺に対して強硬策をとり、師高の父・西光の進言で天台座主・明雲を解任、伊豆国に配流した。延暦寺の大衆が明雲の身柄を奪還したため、後白河は福原から清盛を呼び出して延暦寺への攻撃を命じる。清盛はやむを得ず出兵を承諾するが、内心では事態の悪化を招いた後白河と西光に憤りを抱いていた。

攻撃直前の6月1日、多田行綱の密告により平氏打倒の陰謀が発覚した(鹿ケ谷の陰謀)。清盛の怒りは凄まじく西光は処刑され、関係者は一網打尽にされた。『愚管抄』によると藤原成親が呼び出されて捕らえられた時、頼盛は重盛とその場に居合わせていた。重盛にとって義兄の成親が平氏打倒の首謀者だったことは衝撃だったが、頼盛も謀議に加わっていた法勝寺執行・俊寛が妻・大納言局の兄弟だったことから、厳しい視線にさらされたものと見られる。頼盛自身が陰謀に関与していたかは不明だが、その政治的立場は後白河に近く、疑われるだけの条件は整っていた。藤原成経・平康頼が赦免された時に俊寛だけが許されなかったのは、頼盛に対する威圧・牽制があったのではないかと推測される。

院政停止 [編集]
治承2年(1178年)、中宮・徳子が懐妊する。『山槐記』『玉葉』を見ると徳子出産に関連する行事には、重盛・頼盛・時忠・維盛の4人が多く参仕していたことが確認できる。このうち重盛は徳子の養父であり、時忠・維盛はそれぞれ中宮権大夫・権亮なので不思議ではない。しかし頼盛は徳子とこれといった関係はなく、なぜ徳子の出産に積極的に関わっていたのか理解に苦しむ部分がある。鹿ケ谷事件の衝撃も冷めやらない中で、清盛の疑念を払拭するための必死の行動とも考えられる。徳子が無事に皇子(言仁、後の安徳天皇)を出産すると、清盛は後白河に皇子の立太子を迫った。春宮坊には平氏一門が就任し、言仁は平氏の管理下に置かれることになったため、後白河は平氏に対する不満を高めることになる。
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治承3年(1179年)に重盛・盛子が死去すると、後白河はその知行国・荘園を没収した。特に盛子は前摂政・基実の未亡人として膨大な摂関家領を相続していたので、平氏にとっての経済的打撃は甚大だった。さらに清盛の支援する基通ではなく、関白・基房の子・師家が権中納言になったことが引き金となり、11月14日、清盛はクーデターを起こした(治承三年の政変)。この結果、基房は関白を罷免されて追放、反平氏公卿・近臣39名が解官、後白河は鳥羽殿に幽閉となり院政は停止された。

この時、頼盛も兼官の右衛門督を解官されている。20日には清盛が六波羅にいる頼盛を討つという噂が広がり、すでに合戦が始まったという情報も飛び交っている(『玉葉』同日条)。22日には頼盛の所領が全て没収されたという情報も流れた(『玉葉』同日条)。これらは伝聞情報であり、清盛・頼盛の合戦は誤報であったことが判明する。所領没収に関しても、その後の展開を見ると事実かどうか疑わしい。ただ、頼盛が後白河の幽閉に抗議する可能性があり、場合によっては武力で対抗するのではないかという観測が流れていたことは確かと思われる。

しかし頼盛には清盛に逆らう意思はなく、「ナガク弓箭ノミチハステ候ヌル」(『愚管抄』)と全面的な恭順を誓っている。清盛も武官職である右衛門督の解官のみにとどめているので、頼盛の万が一の妨害を懸念しての予防措置であったとも考えられる。頼盛は翌治承4年(1180年)正月には早くも出仕を許された。言仁親王即位に向けて一門の結束が図られ、頼盛も政権中枢に迎え入れられる。4月の安徳即位に伴う叙位で、頼盛は従二位に叙せられた。この時、平氏一門で叙位されたのが頼盛だけだったことも、政権内部において頼盛の存在が重みを増していたことを示すものといえる。

内乱の勃発と清盛の死 [編集]
治承4年(1181年)5月、以仁王が挙兵する。以仁王は八条院の猶子となり、八条院女房で「無双之寵臣」(『玉葉』文治元年9月19日条)と呼ばれた三位局を妻としていた。以仁王が八条院の支援を受けていることは明白だったが、清盛にすれば高倉院政を何とか軌道に乗せようとしていた矢先の事件であり、ここで八条院と全面衝突になることは避けたかった。しかし、八条院に養われている以仁王の子をそのまま放置することはできず、頼盛に捜索命令が出された。頼盛が選ばれたのは妻が八条院の女房で、八条院との交渉には最適と判断されたためと思われる。

頼盛にすれば気の進まない役割を押し付けられたようなものだったが、命令には逆らえず以仁王の子の身柄を確保して出家させた(『山槐記』『玉葉』5月16日条)。21日、以仁王を匿った園城寺を攻めることが決定され、頼盛は攻撃軍の大将の一人に選ばれている(『玉葉』同日条)。以仁王の挙兵は鎮圧されたが、園城寺・興福寺が同調したことは成立したばかりの高倉院政にとって重大な脅威となった。

6月になると、清盛は突如として福原行幸を強行する。福原では頼盛の邸宅が内裏となり、次いで高倉上皇の御所となった。頼盛は邸宅を提供した功により正二位に叙せられる(『玉葉』6月6日条)。遷都計画は準備不足のため思うように進まず、全国各地で反乱が頻発していた。11月には富士川の戦いで追討軍が大敗したという報告が福原に届き、頼盛と教盛が新たに東国追討使となっている(『山槐記』11月16日条)。ここに至り、清盛も遷都を断念せざるを得なくなった。11月26日、京都に戻った高倉上皇は頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。翌月から平氏は総力を挙げて反撃を開始する。一門の知行国には兵糧米が課せられ、能登国(教盛の知行国)・但馬国(経盛の知行国)は了承したが、紀伊国・佐渡国(頼盛の知行国)は「力不及」と返答した(『山槐記』12月10日条)。

翌治承5年(1181年)正月14日、高倉が池殿で崩御する。幼児の安徳が政務をとることはできず、後白河の院政再開は避けられなくなった。清盛は畿内惣官職を設置して宗盛を任じ、2月17日には「警衛のため」(『吉記』治承5年4月10日条)という理由で安徳を八条に新造された頼盛邸に遷すなど、矢継ぎ早に対応策を講じていたが、閏2月4日に死去した。高倉と清盛の相次ぐ死は、国政における最高権威と実質的指導者が一挙に失われたことを意味し、平氏にとって致命的な打撃となった。

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2009年03月16日 11:16に投稿されたエントリーのページです。

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